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全国各地の100年フード

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近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和3年度認定

海軍ゆかりの食文化 ~海軍カレー・ビーフシチュー・肉じゃが~

明治期の日本は、天然の良港を持つ横須賀、呉、佐世保、舞鶴に軍港を築き、海軍の拠点である鎮守府を置きました。それまでは静かな農漁村であった地域に、最先端技術を集積し、海軍諸機関と共にインフラが急速に整備され、日本の近代化を推し進めました。海軍が地域にもたらしたものは、「食」にも見ることができます。海軍が栄養不足解消のために、西洋式の食事を取り入れたことが、日本における洋食の始まりと言われています。明治41年に海軍が発行した料理教科書『海軍割烹術参考書』には、100種類を超える西洋料理やお菓子のメニューが載っています。4市では、記されたレシピを元にした「海軍カレー」や「海軍さんのビーフシチュ―」、「海軍発祥と伝わる肉じゃが」などがご当地グルメとして愛され、世代や市の垣根を超えた継承と情報発信が行われています。海軍ゆかりの食文化は、4市特有の食文化として受け継がれ、人々に愛され続けています。
海軍ゆかりの食文化 ~海軍カレー・ビーフシチュー・肉じゃが~
広島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和5年度認定

かきの土手鍋

広島県の郷土料理「かきの土手鍋」とは、味噌を鍋の内側に塗って土手を作り、かきと白菜や豆腐、春菊などの野菜を入れて煮ながら食べる広島県で生まれた郷土料理の一つです。味噌の土手を崩しながら好みの味を作っていくという面白い鍋です。なぜ「土手鍋」と言われるようになったかは、諸説あります。①鍋の内側に土手のように味噌を塗るから②江戸時代になってからは毎年旬の時期にかきを満載したかき船が広島から大阪へかきを売りに行っており、かき船はそのままかきを売るだけでなく、橋のたもとの土手下に繋がれた場で「かき鍋」にして提供したから、などです。かきの土手鍋は西の三大鍋とも言われており、広島県では昔から馴染みある鍋料理です。
かきの土手鍋
広島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定
有識者特別賞

柿の葉寿司

「柿の葉寿司」は、江戸時代中頃から吉野川流域の家々で夏祭りのごちそうとして作られてきた奈良の郷土料理です。当時は行商人が和歌山方面で水揚げされ塩で締めた鯖を吉野まで売りに来ていました。海の幸が手に入りにくい奈良県では大変喜ばれました。しかし、塩締めした鯖はそのまま食べるには塩辛いため、薄くスライスした鯖をご飯にのせ、身近にあった柿の葉で包み、木桶や木箱に入れて重石で押しをかけるという手法でつくられてきました。 現代では、製造・保存技術や輸送技術の発展のおかげで、季節を問わず、種類も豊富な柿の葉寿司を楽しむことができるようになりました。1個単位で買えるお店もありますので、食べ比べも楽しんでいただけます。また製造者も、県内30社を超え、奈良を代表するおみやげにもなっています。
柿の葉寿司
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

鹿児島の壺造り黒酢

江戸時代から鹿児島県霧島市福山町において、米を原料にした食酢が屋外で壺を使用して醸造されています。この食酢は熟成期間を経るにつれ、琥珀色に色が付いてくるので、「鹿児島の壺造り黒酢」と呼ばれています。黒酢は、一説では江戸時代の文化2年(1805年)、もう一説では文政3年(1820年)福山の地で初めて造られ、現在に至るまでその生産が継続されており、約200年の歴史があります。第二次世界大戦前後に原料米が統制経済で途絶えましたが、頑固な業者が原料を米の代わりにさつまいもを使い、細々ながらその技術を守り続けてきました。1965年頃から自然食品希求の声の高まりとともに黒酢が見直されてきて、徐々に業者の数も増え、今日では日本全国で親しまれるような存在になりました。
鹿児島県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和3年度認定

笠間の栗菓子文化

日本一の栗の産地である茨城県。その中でも有数の産地である笠間市は、寒暖差や火山灰土壌など栗の栽培に適した環境を背景に、お茶うけやおやつなど、日常的な当たり前の生活の中に「栗菓子」があります。栗畑や栗剥き、お裾分けなどの生活に溶け込む風景と栗ごはんや渋皮煮など、家庭や地域でそれぞれの味の栗菓子があります。そして、店舗のジャンルを超えた「笠間の栗」を使ったモンブラン、栗羊羹、焼き栗、ソフトクリーム、栗おこわ、クッキー、栗甘納豆などの栗菓子があり、市内には住んでいる方、訪れる方の双方が楽しむ「笠間の栗菓子」があふれています。この笠間市の日常生活から生まれてきた多様な「笠間の栗菓子文化」を、未来100年続く食文化として継承していきます。
茨城県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和4年度認定

梶賀のあぶり

三重県南部の小さな漁師町・梶賀町に伝わる魚の燻製料理「梶賀のあぶり」。サバの幼魚など小魚に塩だけで味付けし、竹串に刺し、薪で熾した火の上で2時間ほど遠火でじっくり焼き上げ、薪火からの煙でほんのり燻製風味となります。燻し焼く間に無駄なあぶらは削ぎ落され、塩で引き立てられた魚の身の味と煙の香りが、口の中いっぱいにじゅわっと広がります。漁師が酒のつまみに愛し、女将さんがおかずに重宝し、子供がおやつに頬張る、100年以上もの間、梶賀町の家々で食べられてきた食文化です。その始まりを知るものは誰もおらず、高齢住民の「私のおばあちゃんが娘の時にも食べとったらしいわ」との思い出話から、明治初頭には根付いていたと推定されます。元和5年(1619年)の納税記録から、少なくとも江戸初期には地域で漁業を営んでいたことが分かり、食生活を豊かにしようという生活の知恵で生み出されてきた食文化であろうと推測します。
三重県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定

霞ヶ浦北浦の魚介類食文化~佃煮・煮干し・釜揚げ~

霞ヶ浦北浦周辺は、古くから湖で漁獲されたさまざまな魚を使った水産加工品の生産が盛んな、全国でも有数の産地です。その歴史は江戸時代に遡り、当時は焼きわかさぎ、わかさぎの煮干しといった加工品が作られていました。中でも「焼きわかさぎ」は将軍家への献上品としても知られています。その後、明治時代に佃煮の製造技術が導入され、霞ヶ浦北浦一帯に広まりました。佃煮は、はぜ、てながえび、わかさぎ、しらうおなど様々な魚介で作られ、それぞれの店舗で受け継がれる「もとダレ」により独自の味が守られています。佃煮は保存性が高く、軍事食料としても活用された歴史があります。江戸時代の末期から明治時代にかけて発展したこれらの水産加工品は、魚やえびを丸ごと美味しく食べられるため、カルシウムやミネラルを効率よく摂取できる栄養豊富な食品です。現在も、この伝統的な食文化は続いており、地元の人々や多くの人に親しまれています。
霞ヶ浦北浦の魚介類食文化~佃煮・煮干し・釜揚げ~
茨城県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

ガタタン

「ガタタン」は戦後、旧満州から芦別に引き揚げた故村井豊後之亮が、中華料理店「幸楽」で中国東北部の家庭料理「(ガータタン)」をヒントに創作した料理を提供したのが始まりとされています。野菜を中心に山菜、魚介類、肉類、だんご、卵など10種類以上の具材がたっぷり入り、鶏ガラスープや豚骨スープに片栗粉でとろみをつけた、ボリューム満点の中華スープです。炭鉱が盛んだった当時、たっぷりのボリューム感とアツアツなとろみが、坑内での厳しい仕事を終えた人々の冷えた体を温め、おなかを満たし、明日への活力になったことは想像に難くありません。素朴だけどエネルギーに満ちた、芦別の味。それが、ガタタンなのです。
また本来のガタタンはスープのみですが、現在はスープから派生した、ラーメンやチャーハン、焼きそばなどのアレンジ料理が生まれています。
ガタタン
北海道
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和4年度認定

加太の煮あい

「加太の煮合い」とは、真鯛の一本釣りで有名な和歌山市加太に伝わる古くからの郷土料理です。 江戸時代後期には食されていたとされ、新鮮なイワシ、アジ、ハマチに玉葱のみ加え、甘辛い煮汁で煮た料理です。元々は、漁師が舟上で獲った魚をたまり醤油と日本酒のみで煮て食べたことが始まりとされる典型的な漁師飯です。「魚すき」、「煮魚」とは違い、「炊き食い」という煮込まないうちに食べる料理で、魚は煮れば身がはじける鮮度の物を使用し、味付けは日本酒とたまり醤油のみ、野菜も玉葱のみ使用します。 現在は、時代を経て家庭料理として食されるようになったことで砂糖や味醂も入れるようになり、タマネギ以外の野菜や豆腐も入れるようになりました。 今でも加太では魚の煮付けと言えば醤油と日本酒のみで味付けがなされ、その名残を残しています。
加太の煮あい
和歌山県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定
有識者特別賞

カツオのたたき

江戸っ子たちは初カツオに熱狂し、競って高値で入手していました。好んで川柳の題材としていました。江戸後期の土佐(現高知県)でも、人々は新鮮なカツオを求め、高知城下から約20km離れた宇佐の港で、水揚げ直後のカツオを男たちがにない、休まず走り続けて城下へ届けていました。冷蔵手段がない時代、顧客の要望に応え鮮度を保つための「人力高速輸送システム」です。このこだわりは100年を優に超えて今に継承されています。「高知県の魚はカツオ」と、昭和63年(1988年)に定められました。一世帯当たり消費量は群を抜いて日本一です。同じ高知県内であっても、地域・家庭によって食べ方のバリエーションは豊富です。一口に「たたき」といっても「たれはしょうゆベース」、「たれを使わず塩を振る」、「切る時は思い切り厚めに」、「ニンニクはたっぷり」など、まさに多様性の宝庫です。カツオが高知県民の「ソウルフード」たるゆえんです。
高知県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

鹿角ホルモン

鹿角市の郷土料理「鹿角ホルモン」は、鉱山の運搬に牛馬が使われていたことや、鉱山で働く人々の栄養源として、馬肉やホルモンがよく食べられていた事から地域の鉱山文化と深い結びつきを持っています。その起源は昭和26年、現在の「ホルモン幸楽」を創業した女性がホルモン料理を地元に提供したことに始まります。味噌または醤油ベースのこってり甘辛いタレで味付けした豚や牛の内臓を、ジンギスカン鍋で焼いて煮て食べるのが鹿角ホルモンです。ホルモンの上から蓋をするように乗せたキャベツから水分が出て、煮汁をすくってかけながらじっくり火を通していきます。キャベツがしんなりとしてホルモンに火が通れば食べ頃で、タレのうまみが全体に染み渡り、白いご飯やお酒がどんどん進む絶品料理です。通常のホルモン料理とは違いジンギスカン鍋を使うのが特徴で、締めには鍋に残った出汁にうどんといただくのが定番。最後まで美味しく楽しめる一品です。
鹿角ホルモン
秋田県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和4年度認定

かつめし

かつめしは “洋皿に盛ったご飯の上にビーフカツをのせ、デミグラスソース系のタレをかけ、茹でキャベツを添えてお箸で食べる” 加古川市のご当地グルメです。 かつめしのルーツは、昭和20年代の戦後間もない頃、「お箸で気軽に食べることができる洋食」として加古川駅前の食堂で考案されたと言われています。以降も長く愛され続けており、今では加古川市とその周辺地域の100店舗以上のお店で食べることができます。 スーパーでは専用のタレが販売され、家庭でも親しまれているほか、学校給食のメニューにも取り入れられるなど、市民に馴染みの深いグルメとなっています。 かつめしの魅力は、お店によってそれぞれのレシピがあり、こだわりの味があることです。 最近では、ビーフカツだけでなく、トンカツやチキンカツ、エビフライなどカツのバリエーションも増えてきました。変り種では、かつめしバーガー、かつめしバーなども登場しています。
かつめし
兵庫県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和4年度認定

勝山北谷の鯖の熟れ鮨し

勝山市北谷町の「勝山北谷の鯖の熟れ鮨し」は、脂ののった塩鯖を塩抜きし、麹とご飯を混ぜて詰め、じっくり時間をかけて熟成し、乳酸発酵させた伝統食です。その起源は明らかではありませんが、江戸~明治時代に、九頭竜川をさかのぼって勝山地域まで運ばれてきた塩鯖を地域の伝統的な発酵技法で保存食にしたなどと伝えられています。 勝山市北谷町は、加越山地の山あいにあり、冬場は寒く県内有数の豪雪地帯です。このような自然環境によって、発酵はじっくりと進み、くせのない甘みとクリーミーなチーズのような香りがある熟れ鮨しとなります。加工は11月下旬ごろに行い、およそ1か月後の正月から食べることができます。食べ方は、1~2㎝の厚さに切って、そのまま食べるほか、カルパッチョなどの新しいレシピも考えられています。現在、北谷町に加工場が整備されています。勝山市の冬期間に開催されるお祭りなどでも販売され、人気商品となっています。
福井県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和4年度認定

勝連のもずくてんぷら

沖縄のてんぷらは、衣が厚く、街角のパーラーや商店等で気軽に購入でき、ウスターソースにつけて食べるソウルフードです。沖縄天ぷらの発祥は定かではありませんが、戦後に一般的に普及したと考えられます。今では、おやつや差し入れ、旧盆、ハレの日等、様々な場面でてんぷらは大活躍しています。具材は、さかな、いか、いも、そしてもずくが一般的です。沖縄県のもずくは昭和50年代から養殖の実証実験が始まり、現在は全国生産量一位であり、通称「フトモズク」と呼ばれる太い種類が養殖されています。なかでも沖縄本島中部のうるま市勝連半島周辺から津堅島にかけての海域は県内トップクラスの収穫量をほこり、太くて歯ごたえのある良質なもずくが採れます。もずくてんぷらは、もずくに千切りにしたにんじんを合わせて卵と小麦粉を水でといた衣にくぐらせて揚げたら出来上がりです。お店でも100円前後で買えるため、おやつや差し入れに最適です。
沖縄県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和5年度認定

かましいりこ

かましとは、白山市白峰地域の方言で雑穀のシコクビエのことです。粉の状態では麦焦がしのような香りがあり、砂糖をお好みの量入れて熱湯を注ぎ練り上げた「かましいりこ」は、地域の昔ながらのおやつです。かましは縄文時代晩期に日本に伝えられたといわれ、縄文時代から人々が住み始めたといわれる白峰では、先祖代々大事に食べ繋いできた歴史ある食物でもあります。他の作物よりも加工に手間がかかる事もあり、今では生産者が減少し、流通も多くないため「幻の雑穀」と呼ばれています。その一方で栄養価が高く、近年スーパーフードとしても注目されています。かましいりこの伝統を守るため、白峰の住民で運営する白峰まちづくり協議会が立ち上がり、栽培・収穫後に製粉したかましを特産品販売施設「菜さい」にて販売している他、飲食店のメニューとしてかましいりこを提供しており、観光などで訪れる人々も山村ならではの食文化に触れることができます。
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

亀山みそ焼きうどん

亀山みそ焼きうどんは、ホルモン等の肉とキャベツ、うどんを秘伝のみそダレを絡めて焼く “亀山市のご当地グルメ”です。昭和30年代初頭、亀山市内を走る国道1号線沿いにトラック運転手向けに焼肉店が次々とでき、ホルモン等の安価な肉を美味しく食べるために、ピリ辛のみそダレで肉と野菜を焼き、締めにうどんを入れて食べたのが始まりです。 亀山みそ焼きうどんの最大の特徴は、店ごとに味の違う秘伝のみそダレで、赤みそに唐辛子、日本酒、みりん、にんにく、ゴマ、豆板醤、ラードなどを配合したもので、ご飯もお酒も進みます。また市内店舗には企業とコラボした亀山みそ焼きうどん用のみそダレや、お土産用にも使える亀山みそ焼きうどんが販売されており、自宅で手軽に楽しむことができ、今や亀山市民の食生活に根付いたグルメとなっています。
亀山みそ焼きうどん
三重県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

川内かまぼこ

川内かまぼこは、幕末の頃、平戸で貿易のあったオランダ人の食材である挽肉にヒントを得た地元の漁民が、近海で獲れる魚を握り潰し丸めて水茹でにしてハンペンを作ったのが始まりと言われ、麦藁のスボで包み蒸籠で蒸すようになったのは大正初期からです。以来、百有余年に渡り川内かまぼこは先祖代々引き継がれ、かまぼこ作りが脈々と息づいています。川内かまぼこは、長崎県内はもとより広く認知され、川内町沿岸沿いに立ち並ぶかまぼこの直売店では個性ある味が楽しめます。川内かまぼこの特徴は、ストロー型のスボにかまぼこを巻いているところで、以前は麦藁のスボを使用していたが、手に入りにくくなり、今ではほとんどプラスチック製に替わっています。川内かまぼこは、近海で獲れたエソ、アジやトビ等の生の原料をスボで包み蒸しあげる、昔ながらの独自の製法で新鮮な風味とほど好い歯触りの良さが特徴です。
川内かまぼこ
長崎県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和3年度認定

かんころ餅

約200年前大村藩から五島列島へ開拓農民の移住がありました。移住したのは当時禁教令で信仰を禁止されていたキリスト教を信仰するキリシタンと呼ばれた人たちが中心でした。五島に移住したキリシタンたちは元から島に住んでいた人たちから少しはなれた土地に集落を作りました。その集落は急な山の斜面や不便な入り江の奥などがほとんどでした。やせた段々畑ではさつまいもが良くできて、さつまいもが主食になりました。さつまいもは水分が多いので暑くても寒くてもすぐに腐ってしまいます。そこで、いもを一年中食べるために乾燥させました。さつまいもを薄切りにして、茹で、干しだなで乾燥させます。これを「(ゆで)かんころ」といいます。かんころと餅をあわせてついたもちが「かんころ餅」になります。もともとは貴重品であった餅の「かさ増し」に考えられたようです。【出典】長崎県2018年3月かんころ餅冊子
かんころ餅
長崎県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

きしめん

きしめんは江戸時代より様々な書物にも登場する平打ちのうどんです。平打ちなので茹で上がりが早く、温かいままでも冷たくしてもおいしく召し上がっていただけます。消化もよく夜食をはじめ軽食にぴったりです。うどんが喉ごしならきしめんは口先で平らな感触を楽しめます。愛知県内の麺類飲食店ではおよそどこでもうどんと並びきしめんがあります。どんな調理法でも合うのでサラダと一緒に召し上がってもソースで和えてパスタ風にしても良く、和洋中どんなアレンジも楽しめます。
愛知県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和3年度認定

喜多方ラーメン

喜多方ラーメンは、大正末期に中国から渡ってきた一青年がチャルメラを吹きながら屋台を引いてラーメン(支那そば)を売り歩いていたのが発祥と言われており、その手作り支那そばこそが九十余年の歴史を持つ喜多方ラーメンの元祖と言われています。喜多方ラーメンの麺は、一般的には麺の幅が約4mmの太麺で、水分を多く含ませじっくり寝かせて作る「平打ち熟成多加水麺」と呼ばれ、コシと独特の縮れがあるのが特徴です。また、喜多方ラーメンを構成するスープは、醤油味がベースですが、店によっては塩味や味噌仕立てなど千差万別で、様々な味を楽しむことができます。これらの喜多方ラーメンを構成するスープと麺には、飯豊連峰からの豊富な伏流水や「平成の名水百選」にも選ばれている「栂峰渓流水」を多く含んでいるため、美味しい水を使用して作られる良質な醤油・味噌と共に味の決め手となっています。
喜多方ラーメン
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定
有識者特別賞

北九州の糠の食文化

糠炊きは江戸時代から旧豊前国に伝わる郷土料理です。糠床を調味料として炊き込む料理は珍しく、小倉城下に伝わる独自の食文化と言えます。糠炊きを作るには、熟成糠床が必要です。毎日かき混ぜ野菜を漬けることで発酵熟成が進みます。小倉の糠床は唐辛子や山椒が入っているのが特徴です。糠漬けは季節の野菜を糠床に漬けたもので、米糠に含まれるビタミンB1も摂取出来ます。糠炊きは青魚の煮付けに糠床を入れて炊き込んだもので、魚の生臭みもなく、ごはんのおかずや酒の肴にぴったりです。砂糖、醤油、みりんなどの調味料を使用した「現代式」と、糠床のみを調味料とする「伝統式」があります。糠床の植物性乳酸菌が腸まで届き免疫力向上や、食物繊維による便秘改善作用もあります。最近では青魚以外にも、鶏肉、卵、こんにゃくなど、様々な食材を活用した糠炊きが販売されています。また炒飯やコロッケといった、様々なアレンジレシピも考案されています。
福岡県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和3年度認定

「木頭ゆず」を使った郷土料理「かきまぜ」

【歴史・風土・特徴】徳島県那賀町では、古くから料理の風味付けに「ゆず」が使われてきました。「木頭ゆず」の特徴は、果実が大きく玉揃いがよく、外観が綺麗なこと、そして類をみない香りの高さと酸味が強いことです。この「木頭ゆず」の特徴を活かし、ゆずを中心とした独自の食文化が形成されてきました。我が子や孫に伝えたい食文化ゆずを栽培する農家の母たちが、「かきまぜ」「にぎり寿司」「ゆずみそ」などの地域に伝わる料理を作っています。それらは、我が子や孫に「木頭ゆず」を通して故郷を思い出してもらえる心温まる郷土色溢れた料理です。100年先まで届けたい郷土料理「かきまぜ」:那賀町では、五目寿司のことを「かきまぜ」と呼びます。このお寿司は、通常の米酢などの醸造酢は使わず、ゆず酢100%の果汁を贅沢に使用するのが大きな魅力です。地域では、お祭りや帰省等人々が集う際の定番メニューとされています。
「木頭ゆず」を使った郷土料理「かきまぜ」
徳島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

岐阜の鵜匠家に伝わる鮎鮨

古くから美濃の名物として知られていた“鮎鮨(あゆずし)”です。伝承では、元和元年(1615年)、大坂夏の陣に勝利した徳川家康・秀忠父子は、岐阜に招かれ鵜飼でもてなされたといわれています。その時に食した鮎鮨を気に入ったのか、同年に鮎鮨を将軍家に献上する制度が始まりました。ぎふ長良川の鵜飼の鵜匠家に伝わる鮎鮨は、江戸時代の献上鮎鮨の伝統を引き継ぐもので、飯と塩で鮎を発酵させた、酢を使用しない「なれずし」の一種です。毎年冬になると、年末年始の贈答品として鮎鮨がつくられています。①塩漬け、②塩抜き、③鮨漬け、④口開けを経て完成した鮎鮨は、独特の風味がして何度でも食べたくなります。岐阜市内の旅館では、鵜匠家に伝わる鮎鮨を参考に独自に開発した鮎鮨を提供しています。新たな鮎鮨の商品開発に向けた企画検討も進められています。「家康公ご賞玩の味」として守り継がれてきた岐阜の誇る伝統の味をぜひご堪能あれ!
岐阜県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定
有識者特別賞

京漬物すぐき

すぐきは、京都市北区上賀茂地域に伝承する京の伝統野菜のひとつで、伝統の技と塩だけで漬け込まれた京都の冬を代表する漬物です。乳酸発酵による特有の酸味が特徴で、乳酸菌の一種であるラブレ菌が含まれており、近年、健康食材としても注目されています。その歴史は古く、起源は桃山時代ともいわれ、当初は上賀茂神社に奉仕する社家のみでつくられ、上層階級の贈答用の高級品として扱われていました。江戸時代後期になると上賀茂神社周辺の農家に受け継がれ、この地域に限り栽培されるようになりました。すぐきは、生産農家が栽培から加工・販売までを一貫して行っており、各家によって守り続けられてきた味や、長さ3~4mの丸太の先に重石をくくりつけ、テコの原理を応用して圧力をかける、この地特有の天秤押しなど、伝統的な生産技術があります。数百年にわたって受け継がれ、守り続けられてきた伝統の技を是非味わってください。
京漬物すぐき
京都府
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

魚飯

現在の竹原市街地は、江戸時代に入ると干拓がすすめられ、これを塩田としたところ良質の塩を産出しました。竹原は1650年から300年以上もの間「塩の町」として大いに栄え、塩田の持ち主は「浜旦那(はまだんな)」と呼ばれ、塩田が生み出す富を背景に豊かな商人文化を竹原に根付かせました。「魚飯」はその「浜旦那」が来客時のおもてなしや祭事の料理として提供していたものといわれています。魚飯の定義は、白身魚を焼き、その身を取りほぐしたものと、彩りを美しくする旬の具材をご飯の上に盛り付けます。最後に白身魚からとっただし汁をかけて食べる料理です。魚飯は新鮮な材料と旬の食材を使い、料理人が竹原の歴史に思いを馳せ、心を込め、手間をかけてつくる料理です。魚飯の具材は、錦糸卵、三つ葉、しいたけ、えび、海苔やたけのこ、白身魚(鯛、ひらめ等)です。
魚飯
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

清水羊羹

清水羊羹は安来市清水町にある名刹・瑞光山清水寺周辺で提供される代表的な和菓子です。起源は古く、平安時代に天台第三祖慈覚大師円仁が遣唐の帰路に清水寺に立ち寄られた際に、羊の肝料理を食べた話をされましたが、瑞光山清水寺は天台宗のため肉食を禁じられていました。そこで、肉や魚などを使わない精進料理として羊の肝を使った料理を再現したのが清水羊羹の始まりとされています(諸説あり)。その後、鎌倉時代末期に瑞光山清水寺より清水羊羹の製造方法が人々に伝授され、現在は清水寺周辺で4つの製造所が日々研究改善を重ねながら生産されており、清水寺に訪れる参拝客や地域の人々に愛されています。小豆・砂糖・寒天等(製造所によっては、左記の3つのみ)を主な原料として、「無添加」「手作り」の伝統的製法を今日まで伝承しており、製造所によって微妙に違う配分・製造過程により、独自の味や食感を表現しています。
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定
有識者特別賞

きりたんぽ

「きりたんぽ」は、江戸時代からあり、日本三大美味鶏として有名な大館産比内地鶏のガラで出汁をとり、比内地鶏の肉や地元の具材を入れて作る鍋料理として、大館ではごく普通の家庭料理です。各家庭で、母から子へと代々受け継がれてきたいわば「おふくろの味」です。また、客をもてなすために欠かせない料理でもあり、冠婚葬祭の際は、必ずといっていいほどだされるごちそうでもあります。秋も深まり新米の出回る時期になると、新米のきりたんぽと脂の乗った比内地鶏を味わう「たんぽ会」が市内の至るところで頻繁に催され、街はたんぽ一色になります。大館の人々にとってきりたんぽは生活から切り離せないものなのです。このような大館の風土が、昔のままのきりたんぽを現在に至るまで守り続けてきました。
秋田県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

桐生うどん

1300年もの昔より桐生織の伝統を紡いできた織都桐生。明治から昭和初期の最盛期には、日夜問わず織機が動き、職人や女工は食事をとる時間さえ惜しまれるなか、手早く食べることができたうどんが重宝されたといいます。桐生うどんは織物産業とともに育まれ、地域の日常食として今日まで定着しています。元々桐生は浅間・榛名・赤城の火山灰を含む肥沃な土壌をベースに、日照時間の長さ、乾燥したからっ風、そして桐生川の名水と、良質な小麦が育つ環境に恵まれています。そんな小麦粉から、舌触りが良く、強いコシ、表面の光沢が特徴の桐生うどんは生まれます。通常のうどんに加え、幅広の「ひもかわ」も秋から冬にかけて、昔からこの地域で食されてきた郷土食で、最近では10cm以上の超幅広ひもかわが度々メディアで紹介されるなど注目が集まっています。織物の技術と共にこの地に伝わり産業と共に歩んできた日常食は、この土地独自の地域資源です。
群馬県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

金山寺味噌・径山寺味噌

鎌倉時代建長元年(1249年)に宋(中国)に渡った法燈国師(覚心)が、径(金)山寺で修行の際、習得した製法を日本に持ち帰り伝えました。そして、西方寺(現興国寺)の開山となり、お寺では、保存食(常備菜)として造られていましたが、美味で滋養があることから周辺にその醸造方法が伝えられました。また熟成の際、にじみ出る上澄み液が、美味なことから醤油へと発展しました。江戸時代になり徳川御三家紀州藩主、家康の子である、頼宣の産業奨励以来、工業的に広く和歌山県内で醸造されるようになり民衆に広がりました。調味料としての味噌とは違い、米・麦・大豆を全て糀にし、瓜・茄子・生姜・紫蘇などの野菜をふんだんに入れ醸造した味噌で、そのまま召し上がる“おかず味噌”です。現在も尚、その醸造方法が、受け継がれ和歌山県を代表する発酵食品であり郷土食として温かいご飯やお粥、焼き魚や生野菜の付け合わせとして親しまれています。
金山寺味噌・径山寺味噌
和歌山県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和4年度認定

くさぎ菜のかけめし

くさぎ菜のかけめしは、岡山県加賀郡吉備中央町で、昔は猟で獲れた雉や野うさぎを具材にしたり、祭りや結婚式などのハレの日にご馳走として食べられてきた郷土料理。くさぎ菜とは山野に自生するクサギ(クマツヅラ科)の若芽を採って乾燥させたもので、葉に特有の臭気があり、臭木(クサギ)の和名がつきました。クサギの葉を食すには、アク抜きや乾燥などの下準備や、水で時間をかけて戻す作業など、とても手間がかかりますが、古くは薬用とされるほど栄養価も高く、長期の保存が利くため、寒い冬を迎えるこの地域では、重宝されてきました。そのくさぎ菜のおいしい食べ方は、かけめしです。干して戻したくさぎ菜を小さく切って油で炒め、鶏肉などの具材と共に下味をつけご飯にのせ、別に鶏ガラでとったすまし汁をかけて食べます。このふるさとの味を残していくため、小学校の給食で提供されていたり、町内の飲食店でどなたでも召し上がることが出来ます。
岡山県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和5年度認定

釧路のそば

釧路には人口比で他に類を見ないほど多くのそば店があります。蕎麦の一大生産地ではない釧路にそば店が多いのは東家の存在が大きいと言えます。東家は明治7年小樽で創業、明治45年釧路に東家本店を開店、現在は竹老園東家総本店が暖簾を守っています。現在、市内の暖簾分け、その他のそば店23店舗が釧路そば商組合に加盟し、その殆どの店は東家の伝統技法の影響を受けています。東家のそばの特長の一つに明治中期より「神田藪そば」に影響を受けた緑色の更科麺が挙げられます。初期はソバもやしなどを使っていましたが、現在はクロレラ粉末を使用しています。そば汁は、「半生がえし」に宗田節でとった「出汁」を合わせたコクの強いものです。加盟店では、一般的な若鶏ではなく親鶏を使った「かしわぬき」や「かしわそば」、創作そばや地場の特産品を使ったそばなど多彩なメニューを提供しており、お好みで選べるお店が豊富であるのも楽しみの一つです。
北海道
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

球磨焼酎

人吉球磨地方では、約500年前から米焼酎造りが行なわれています。米のみを原料とし、人吉球磨の水で仕込んだもろみを人吉球磨で蒸留し、人吉球磨で瓶詰めした「球磨焼酎」は、地名を冠することのできる世界的に認められたブランドです。人吉球磨の豊かな大地、良質な米と水へのこだわり、500年近く続く伝統と製法を守りながら丹精込めて造り続ける蔵人です。「球磨焼酎」は、地域と密接に結び付いた文化そのものであり、どこにもまねできない特別な米焼酎です。
球磨焼酎
熊本県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定

からし蓮根

熊本の郷土料理として代表的な辛子蓮根。寛永九年(1632年)頃、病弱で食欲不振だった肥後細川藩初代藩主 細川忠利公を心配した禅僧沢和尚が、栄養価が高く熊本の地にてとれる蓮根を食すよう勧め、辛子蓮根を献上したのが始まりと言われています。そして辛子蓮根を食べた忠利公がみるみる食欲を取り戻し、さらに蓮根の穴が細川家の家紋「九曜」に似ていることから藩の栄養食となり、明治維新頃までは門外不出の味でした。現在では熊本名産の郷土食として、多くの方々に愛されています。
からし蓮根
熊本県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和3年度認定

クリームボックス

クリームボックスは、手のひらサイズのパンに白いミルク風味のクリームをたっぷり塗った郡山市発祥の菓子パンで、郡山市民のだれもが知っているご当地パンです。1974年(昭和49年)に誕生し、その後、市内のパン屋に広がり、子どもから大人までみんなに愛されるソウルフードに成長しました。高校の売店でも売られていた為、いわゆる団塊ジュニア世代の多くの人たちにとって、青春時代にたくさん食べた甘い思い出となっています。誕生から40年以上経過し、今では市内20店舗以上のパン屋で定番商品として販売されています。お店によって味や形に違いがあり、地元産品や季節のフルーツなどとコラボするなど、時代と共に様々なバリエーションが生まれ進化してきました。多くの人々に愛され続けてきたクリームボックスは、これからもふるさとの味として未来に受け継がれていきます。
クリームボックス
福島県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和5年度認定

栗おはぎ

宮崎県美郷町周辺の家庭で秋のおやつとして食べられている栗おはぎは、栗の産地である里山で育まれてきた食文化です。栗は鮮度が命、傷みやすく、朝作られたものが夕方には食べられなくなることから、各家庭や地域のみで受け継がれています。80代の方に伺うと昭和20年代頃は、小豆が貴重で手に入りにくかったため、山に自生する山栗を拾い、おはぎを作ってもらい、おやつとして食べられていたようです。産地の特徴を活かし、栗の風味豊かでホクホクした栗と、しっとりとしたもち米が融合した栗の産地美郷町が育んだお菓子です。今でも家庭で食べられていますが、美郷町内のお菓子屋でも販売されるようになり、秋になると県外からも栗を求めてお客様がいらっしゃいます。美郷町では、栗おはぎを食べる文化とともに産地を守り、宮崎美郷栗のブランド化を目指しています。
栗おはぎ
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

久留米焼きとり

久留米焼きとりは1960年代に屋台で出されたのが始まりとされ、今では日本屈指の焼きとり密集地帯になっています。久留米焼きとりの最大の特徴は、そのバラエティの豊かさ。鶏はもちろん豚、牛、馬、魚介類、野菜、創作巻物など、幅広い食材を竹串に刺し、炭火でじっくり焼きあげます。ハルツ(心臓)やせんぽこ(動脈)など内臓ものの数が多いのも特徴で、中でもダルムと呼ばれる白モツの人気が高く、久留米焼きとりには欠かせない存在です。ダルムなどドイツ語のメニューがあるのは、久留米には医大があり、医学生が使う医学用語から派生して定着したものとされています。焼きあがった焼きとりには酢ダレがかかったざく切りキャベツが添えられ、串に刺した肉の間には玉ねぎが挟まれていることが多いのも特徴です。市内に200軒を超えると言われる焼きとり店には、夕食として来店する家族層も多く、まさに久留米のソウルフードとして親しまれています。
久留米焼きとり
福岡県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和5年度認定

黒石つゆやきそば

「黒石つゆやきそば」はモチモチした食感の太平麺をウスターソースで炒めた「黒石やきそば」に、たっぷりの「つゆ」をかけ、揚げ玉や刻みネギをトッピングしたものです。1960年代に旧中郷中学校前にあった「美満寿(みます)」というお店で学校帰りの子供達に冷めた「やきそば」に温かい津軽そばの「つゆ」をかけて食べさせたのがはじまりだとされています。近年ではご当地グルメとして人気を呼び、各店舗により和風だしや中華スープをかけて、天ぷらや卵のトッピングをするなど、様々なタイプが登場しています。これからも地域の食文化の承継のため「黒石つゆやきそば」を広げていきます!
青森県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定

桑名焼き蛤

東海道随一の名物と称される「桑名焼き蛤」は、江戸時代に桑名宿の名物として多くの旅人を魅了し、浮世絵や『本朝食鑑』『東海道膝栗毛』などの文献にも取り上げられるほど絶大な人気を博しました。地域の創意工夫によって生み出された多彩な焼き方や独特の香りが特徴で、特に松ぼっくりで燻しながら焼く製法には、一説には火薬づくりの知識をもつ忍者が関わったとの説も残されています。100年前に一度途絶えたこの技も、地元の飲食店が研究を重ねて復活させ、各店ごとに当時の風情を大切にしながら現代の感性を取り入れた一品として提供されています。こうした“旅先で名物を味わう”という江戸の旅人のスタイルは、まさに現代でいうガストロミーツーリズムの先駆けともいえ、ぜひ桑名を訪れ、その歴史とともに受け継がれてきた桑名焼き蛤の魅力を堪能していただきたです。
桑名焼き蛤
三重県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和3年度認定

群馬のソースカツ丼

トンカツ、豚丼、焼肉など、様々な豚肉料理が堪能できる前橋市です。そんなグルメなまち前橋で知る人ぞ知る名物グルメが「ソースカツ丼」です。昔ながらの食堂はもちろん、洋食屋、そば屋など様々なジャンルのお店で、「ソースカツ丼」を提供しています。「ソースカツ丼」の歴史は大正にまでさかのぼります。特徴は、他のカツ丼のように卵でとじるのではなく、自慢のたれを絡めたスタイルにあります。とある店舗では創業時からの教えとして、「ソースカツ丼はソースが要である。だから、ソースをよく味わってもらえるよう、カツをできるだけ薄く揚げなさい」とのこだわりもあります。お店によって個性の違うソースカツの味を食べ歩いてみるのもおすすめです。
群馬のソースカツ丼
群馬県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

鯨肉郷土料理

山口県の北浦(山口県の日本海沿岸)地区では原始時代から鯨を食用に供していました。江戸初期には仙崎、通、川尻地区で「鯨組」という組織ができましたが、幕末から明治にかけて鯨組は衰退し、明治32年、全国初のノルウェー式砲殺捕鯨会社が長門市仙崎に設立され、近代捕鯨が始まりました。以上の捕鯨状況から、原始時代から鯨肉が食されていました。長門市では、昔から「南蛮煮」「くじらなます」「くじら汁」等が大晦日や節分に食されていた風習がありました。「南蛮煮」は、鯨肉(赤肉、皮、畝須)と季節の野菜(ごぼう、大根、人参等)を煮込んで味噌で味付けをしたもので、保存食としてよく作られたものです。「くじらなます」は、鯨の皮を薄切りにしてゆでてなますに入れたものです。「くじら汁」は、薄切りにした鯨の皮と季節の野菜をたっぷり入れた味噌味の汁ものです。いずれも伝統料理です。
鯨肉郷土料理
山口県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

けの汁

「けの汁」は豊里町の二ツ屋地区に伝わる郷土料理です。毎年1月中旬になると、大根やジャガイモ、タケノコ、焼き豆腐、油揚げ、ワラビ、ささげ(豊里特産のインゲン豆のような赤い豆)など十数種類の材料を使い、みそやしょうゆなどで味付けをした「けの汁」が家庭の食卓に上がります。江戸時代後期に、二ツ屋地区に移り住んだ盛岡藩の領民が始めたとされる固有の食習慣で、小正月の習慣として今も受け継がれています。似た材料を使う同名の汁物が青森県の郷土料理として知られていますが、二ツ屋地区では「カユの汁」とも呼ばれ、昔あった飢餓を思い出し、当時の辛苦を忘れないよう米飯をやめ、正月16日だけカユと汁を食べ昔の苦を偲ぶ習慣が今に残ったことが語源ともいわれています。野菜の旨みと調味料で出る味わい深い美味しさ、豊里町のしかも二ツ屋地区だけで作られている幻の郷土料理「けの汁」を今後も世代を越えて受け継いでいきたいです。
宮城県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和5年度認定

献上寒晒しそば

献上寒晒しそばは、冷え込みが最も厳しく川の水がきれいになる大寒の時期に10日間ほど清流にそばを浸し、天日と寒風に晒すもので、このことによってたんぱく質(あく)が抜けていき、雑味が抜けてもちもちとした食感とほのかな上品な甘い香りが出る、茅野市の気候や風土を生かしたそばになります。茅野市産の玄蕎麦(そばの実)を使用し、茅野市の冬期の凍みる気候(晴天率高く、乾燥・寒天生産地でもある)を利用して作る。これらは、地域の食材を、天然の気候をうまく利用し保存する先人たちの知恵でもあります。現在では、新年に諏訪大社上社で、そばの実を神前にて清める「清祓式」を行ったり、夏の土用丑の日頃から、加盟店で「献上寒晒しそば祭り」と称し一斉に販売をしています。江戸時代に将軍家に献上された歴史ある寒晒しそばの伝統は現在に引き継がれ、限られた店舗でしか提供していない「幻のそば」に多くの「そばフリーク」が舌鼓を打っています。
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

謙信ずし(笹ずし)

飯山市富倉地域の里人が上杉謙信に献上したと伝えられる謙信ずし(笹ずし)は、雪国の古人の知恵とロマンをかきたてる郷土食です。ぜんまいやこごみ、わらびといった山菜やくるみなど、山の幸を具材とするところは、海のない信州ならではであり、特有の食文化が発達してきたことが窺えます。飯山市では、祝い事や祭りなどの行事があると、笹ずしを「晴れの食」としてもてなす習慣があり、喜ばれています。また、酢をきかせた飯を抗菌作用のある笹の葉にのせるため、高い防腐作用があり、直接笹の葉から食べるのが本来の食べ方とされるなど、保存食、携帯食に適しています。1553年から12年間にわたって争われた川中島の合戦に向う謙信の兵が食べたとされる言い伝えも納得です。平成12年に「長野県選択無形民俗文化財」、平成19年に「飯山市選択無形民俗文化財」に指定されており、地域の誇りとして今後も継承していきたい大切な食文化のひとつです。
謙信ずし(笹ずし)
長野県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和4年度認定

香南ニラ塩焼そば

高知県中東部に位置する香南市はニラの出荷量日本一を誇ることで知られています。栄養素を豊富に含みニラには疲労回復やビタミンの吸収を高める効果が規定できると言われ、ニラを美味しくたくさん食べてもらいたい!という思いから、ご当地グルメ「香南ニラ塩焼そば」が誕生しました。 たっぷりのニラと、どのご家庭でも味わってもらえるように試行錯誤を重ねて作った塩だれの相性抜群! ニラには独特の香りがあり、スジばった食感があるという人もいます。しかし、ニラ生産者の方にお聞きすると「ニラは誤解されている」と語ります。「新鮮なニラには甘みがある!」切り口から水分が滴り落ちるほど瑞々しく、柔らかみもあります。おいしく食べるためには過熱は30秒までで十分。スジがあるというのは過熱しすぎです。 太陽をいっぱい浴びて育った美味しくて栄養満点の香南市のニラを食べて、毎日を楽しく過ごしましょう。
高知県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

甲府鳥もつ煮

甲府の蕎麦屋さんの定番「甲府鳥もつ煮」。「もつ煮」というと、汁気があって長時間煮込んだものが一般的ですが、「甲府鳥もつ煮」は醤油と砂糖ベースの少量のタレを使い強火で短時間のうちに照り煮します。水気が飛んで飴状になったタレで鳥のもつをコーティング、旨味をぎゅっと閉じ込めて照りを出します。本物の蕎麦職人が絶妙な火加減とタイミングで作る、この”照り”が重要です。戦後まもない昭和25年(1950年)頃に、「鳥のもつが捨てられていてもったいない。なにか安くて美味しいものができないものか」と甲府市内の蕎麦屋さんが考案しました。その後、地域の飲食店に広がっていき、今では、ほうとう、煮貝と並ぶ甲府独自の食文化となりました。砂肝のコリコリ感、しこしこしたハツ、レバーのやわらかさ、ぷちっとした感触のきんかん(産まれる前の卵)。そんな食感のハーモニーも楽しめる「甲府鳥もつ煮」をぜひご賞味ください。
甲府鳥もつ煮
山梨県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和5年度認定

郡山ブラック

郡山ブラックは、濃口醤油やたまり醤油などを使用した漆黒のスープが目を引く醤油ラーメンであり、その見た目にもかかわらず、まろやかな味わいが特徴です。大正6年頃に市内の食堂で提供し始めた中華そばが郡山ブラックの起源と言われており、郡山ブラックの提供店では、「ますや本店」が最も古い歴史があります。郡山ブラックの製法は、「醤油だれ」と「がらスープ」を一つの寸胴や鍋で合わせる「郡山クラシックブラック」と、郡山ブラックを現代的な解釈で独自にブレンドした「醤油だれ」と「スープ」をラーメンどんぶりで合わせる「郡山ネオブラック」の2種類があります。福島三大ラーメンの1つにも数えられており、近年では、郡山ブラック特集の全国放送や郡山ブラックカップ麺の商品化など、全国でも注目を集めています。伝統の漆黒のスープを守りながら進化し続ける郡山ブラックは、郡山の郷土料理として、世代を超えて受け継がれています。
郡山ブラック
福島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定
有識者特別賞

五家宝

江戸時代後期から熊谷の地で作り続けられてきた五家宝は、伝統的な食文化として現代の熊谷人に愛され続けています。もち米を一旦もちについてから薄くのばし、細かく砕いて煎り、あられ状にしたものを円筒状にして、その外側に黄な粉をまぶします。より板(のし板)で長くのばしてから適当な長さに切ります。今もなお昔から継承されてきた独特の手作り技法によって、熟練した職人の腕や勘に頼りながら、家内工業的に作られており日持ちも良いことから、熊谷名物として人気を集め全国に知られるようになりました。五家宝の発祥には諸説ありますが、中山道の宿場町として栄え市も開かれていた熊谷では、荒川の恵みを受け、五家宝の原料となる良質の米がとれました。そして、大豆が豊富に作られており、水飴の原料となる大麦も多く収穫され、生産に適していたことから、「五穀は家の宝である」という祈りを込めて現在の「五家宝」が確立されたと考えられています。
五家宝
埼玉県
近代の100年フード部門〜明治・大正に生み出された食文化〜
令和3年度認定

五箇山かぶら甘酢漬

五箇山かぶらは古くから伝わる在来種で、連作を嫌うためなぎ畑(山の斜面での焼畑農法)で作る赤かぶらです。五箇山での一部地域でのみ栽培を続けています。10月から11月にかけて収穫し、甘酢漬は日常的にはもちろん浄土真宗の行事の各家庭の報恩講料理にも出てきます。今でも少しですがしっかりと受け継がれている伝統作物であり伝統料理です。
五箇山かぶら甘酢漬
富山県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和3年度認定

小倉焼うどん

北九州・小倉で誕生した焼うどんです。その歴史は終戦直後の昭和20年に遡ります。焼そばを作ろうにも、時代は食糧難のピークであり、当時の小倉では肝心のそば玉が手に入りにくい状態でした。やむなく干しうどんを代用して試作されたのが焼うどんであり、小倉発祥の起源となっています。現在は、小倉焼うどん研究所にて運営されているその店こそが小倉北区魚町にある「だるま堂」とされています。現在ではごく一般的な家内食となっている焼うどんですが、“元祖の味”が一線を画す所以は干しうどん、つまり乾麺を使用する点にあります。茹で置きが出来ない分、調理に手間暇がかかってしまうものの、焼き目がしっかりと付いた、もっちりとした食感を通常の茹で麺で実現することは不可能なのです。その秘められた“素材力”に着目し、様々なイベントを手掛けているのが「小倉焼うどん研究所」であり、小倉発祥説が一般レベルで認知される礎を築いてきました。
福岡県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和5年度認定

こけらずし

こけらずしは、通常の押し寿司とは大きく違い、こけらずし独特の様々な特徴があります。土佐の人は「柚子酢」と書いて「ゆのす」と言い、高知県は温暖な気候なので、酢を好む傾向があり酢飯をゆずのみで作る文化がありますので、東洋町のこけらずしも柚子酢(ゆのす)が使われています。柚子酢を使った酢飯に焼鯖(サバ)のほぐし身を混ぜ込み、椎茸、人参、錦糸卵など沢山の具材を乗せて四角い木枠に柚子の酢飯と具材をどんどん何層にも重ねていく「押し寿司」で「投げても壊れんくらい」に固く仕上げた程良く固い食感も味も最高の押し寿司です。鯖から出る出汁が寿司飯の味に深みを与えてくれて、後味に、ほんのり焼鯖(サバ)の香りがします。更に出汁の効いた椎茸が柚子酢の酢飯と相性が良く、口に入れた瞬間に美味しさが口いっぱいに広がります。
高知県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和5年度認定

こさかまちかつらーめん

かつて日本有数の鉱山を有し栄えた町、秋田県小坂町。この町で大正初期から続く伝統行事小坂七夕祭は、鉱山従事者の技術を生かした山車の出来を競わせることを目的にしていました。山車製作中、飲食店での食事を楽しむ鉱山従事者が、作業終盤には急いで食事を済ますため、かつ丼の上具をラーメンに乗せたメニューを店側に提案し、裏メニューとして提供が始まったのが昭和45年頃。その後、町民に人気を博したかつらーめんは43年の時を経て、町のソウルフードとして、民間団体こさかまちかつらーめんBOO会に継承されました。地元ブランド豚を使用し、各店の解釈でアレンジされたかつらーめんと、二人羽織で早食いを競うイベントが話題を呼び、秋田県内での認知度は飛躍的に向上。“古くて新しい庶民の味”をテーマに進化を続ける、こさかまちかつらーめん。是非ご賞味あれ!
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和5年度認定

こしがや鴨ネギ鍋

地元特産である越谷ねぎと越谷市に宮内庁鴨場があることから「越谷ねぎ」と「鴨」を使用した料理「こしがや鴨ネギ鍋」が誕生しました。「鴨が葱を背負って来る」のことわざの意味は、鴨の肉に葱まで添えてあって、すぐ鴨鍋ができる意から、うまいことが重なり、ますます好都合であることのたとえ。だから、「こしがや鴨ネギ鍋」は縁起がいい!鍋なんです。~こしがや鴨ネギ鍋の特長と条件~元祖「こしがや鴨ネギ鍋」はしょう油ベースの鍋つゆに鴨つくねと具だくさんの野菜入り。越谷ねぎは煮込みの他に、焼いたものを最後にスライスした鴨肉と一緒にトッピングするのが特長です。 「こしがや鴨ネギ鍋」は、1.しょう油ベース、2.店主厳選の安全安心の鴨(合鴨)肉使用、3.越谷ねぎは煮込みと焼きのダブル使いの3条件のみ。その他のかくし味やアイディアは各店舗におまかせとなっていますが、元祖も各店も、煮ても焼いても甘い越谷ねぎの特長を活かしたお鍋となっています。
こしがや鴨ネギ鍋
埼玉県
未来の100年フード部門〜目指せ、100年!〜
令和6年度認定

御所のたらいうどん

「御所のたらいうどん」は、うどんを木製のたらいに入れ、つけ汁につけて食べる阿波市の郷土料理です。土成町御所の国道318号を山の奥へと進んで行くと、清流沿いにたらいうどん専門店が並んでいます。お店で打った自家製麺はコシが強く小麦の風味が豊かで、濃いめの出汁とよく合います。たらいうどんの食べ方にはちょっとしたコツがあります。箸でうどんを引き上げる時に高く持ち上げず、たらいの縁に沿わせて湯を切りながらつけ汁の容器に入れます。こうすると湯がはねず、最後までお汁が薄まらずに美味しくいただけます。丸いたらいを皆で囲む独特のスタイルもたらいうどんの醍醐味。ワイワイ食べると美味しさもひとしおです。お店は谷のすぐそばにあり、店の中から川の景色を眺め、せせらぎの音を聞きながらたらいうどんを食べられます。谷に降りて水遊びができる店もあり、自然豊かなロケーションを含めて楽しむスタイルとなっています。
御所のたらいうどん
徳島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和3年度認定

こづゆ

こづゆは、主に江戸期に北前船がもたらした海産物と会津古来の地場産品の組合せによりできあがった料理です。当時貴重な海産物を保存加工し独自につくりあげた、いわば会津を代表する郷土料理といえるもので、まさに会津の先人が風土に根差した当地固有の料理として創作したものです。その歴史は、江戸後期会津藩八代藩主松平容敬公の参勤交代の折、食べられた『重』という料理がルーツとされます。元々冬期間のお祝い膳に出されていましたが、現在は冠婚葬祭やお正月など特別な日に欠かせないおもてなし料理となっています。伝統工芸会津塗の「大平」という椀に盛られ、「手塩皿」という朱塗りの小皿に分けて食べます。
こづゆ
福島県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和6年度認定

五島うどん

およそ1200年前、遣唐使船の寄港地として知られた上五島には、大陸から様々な文化がもたらされましたが、「五島うどん」もその起源は遣唐使によって伝えられたといわれています。島の特産品である食用の椿油を塗布しながら、棒状の生地を2本の箸にかけ、引き延ばしては束ねる作業を繰り返し紐状の細い麺にしていきます。椿油を使用するため独特の風味が生まれ、製造の工程で何度も熟成を重ねたあと乾燥させることから、コシが強く切れにくい麺が完成します。代表的な郷土料理は「地獄炊き」です。ゆで上げたうどんを大鍋ごと食卓に乗せ、煮えたぎる鍋の中からうどんをすくい、薬味を加えたアゴ(飛魚)出汁や生卵にからめて食べます。大勢で鍋を囲みながら食べるシンプルかつ豪快な本場ならではの食べ方です。
五島うどん
長崎県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和4年度認定
有識者特別賞

五平餅

代々受け継がれてきた奥三河地方の郷土食。ワラジを連想させる大きさは岐阜県、長野県の五平餅と比較しても特徴的です。 昔からお客様を迎えるおもてなしにたくさんの料理を作って出す風習があり、その流れを汲んで「わらじ」を連想する大きな五平餅ができました。年末年始や盆などの家族、仲間が集まった時には、家々から味噌や醤油の焼ける良い香りが漂います。 名の語源は「最初に作った人が五平さんだった」など諸説ありますが、串に白米を練りつけた姿が、御幣に似ていることから御幣餅の名が付き、それが転じたとの説が有力です。春秋の「山の講」には、山の神の神前に五平餅を供える風習が残ります。 おいしい五平餅の秘訣は3つ。一つは串の材料に素性のいい年輪の詰んだスギ材を選ぶこと。二つ目はつぶし足らずつぶし過ぎずの「半ごろし」状態に白米を練ること。三つめは味噌だれ(醤油だれ)の隠し味。クルミや蜂の子といった山の幸が加わることもあります。
五平餅
愛知県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和5年度認定

御幣餅(五平餅)

昔から、祭り街道として栄える芸能の里 阿南町では、南信州の隠れ味と言われる幣束の形を模した御幣餅があります。この御幣餅は、他とは異なるその形から「神様へ捧げるご馳走」として始まったものだと言われ、この地域に受け継がれてきました。伝え聞くところでは、江戸時代の頃には、すでに幣束を模した御幣餅が捧げられていたそうです。道の駅信州新野千石平では、この地域で昔から受け継がれてきた、幣束を模した御幣餅を製造販売しています。この地域の味を是非、味わってみてください。
長野県
伝統の100年フード部門 〜江戸時代から続く郷土の料理〜
令和4年度認定

小松うどん

幕府への献上品から加賀藩主、そして城下の庶民に広く愛されるとともに、俳聖・松尾芭蕉からも称賛を受けた加賀藩の名産品として知られた「小松うどん」。 程よいコシとつるつるとしたのど越しの細麺が特徴。出汁は霊峰白山の伏流水を使用し、ウルメ、ムロアジ、サバなどの雑節と北前船交流で用いられるようになった昆布をふんだんに使ったうま味と甘みのある上品なコクが最大の特徴です。 出汁とうどんの相性は抜群で、素うどんや冷やしうどんはもちろんのこと、ニシンうどんやいなりうどん、肉うどんなど具材により様々なうどんが楽しめます。ほんのり飴色がかった色は小松産小麦使用の証です。 江戸時代前期から330年以上の歴史と伝統を現代に受け継ぐ「小松うどん」。石川県内に広く浸透する日常食として、様々な場面で食される小松人が愛してやまないソウルフードです。
小松うどん
石川県